『自分解放』いきいきライフ☆

人間関係、仕事、恋愛・・・色々と悩むことが多い世の中。そんな悩みを払拭する。楽しい生き方の提唱ブログです(^^)

「自分原因論」ではなく「矢印を相手に向け」て考える。

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「矢印を相手に向ける」

というのは先月、越境会のセミナーでサトリさんから聞いた言葉です。

この言葉について深く考えるきっかけがありました。

オーディオセミナーにあった「私はこの経験によって何を受け取ったのだろうか」ということについて考えを巡らせた上での思いです。

矢印を相手に向けて考えたり行動していきたい」

という考えについての記述です

最近、彼女に振られました。


ここ数日、音沙汰もなく、「どうしたんだろう」と思っていたのですが、対して気に留めず過ごしていました。

「前の彼女にもこのくらいで振られたし、このくらいで飽きられるものなのかな」
とか
「好きな人ができたのかな」
とか
「同棲先が職場から遠かったから嫌になったのかな」

とくらいにしか思ってませんでした。

結局、親御さんとも挨拶をしていたので、実家に行き感謝の手紙を出しに行ったり(今考えればすごく自己中心的で無粋ですが、その時はそれで感謝の気持ちを伝えたかったと考えていました)、「このままじゃあお互いよくないから、別れるなら別れようよ。」というメールをLINEで送っていました。

数日後、家に帰ったら机の上に「別れてください。」といった簡素な手紙が置いてありました。

思ったより辛く、現実をきちんと受け止めることができずに目を逸らして別のことに熱中したり、(今考えれば)怖がらせるようなメールを送ったりしてしまいました。

その翌日とある会の帰り、終電を逃して一人で夜の街を歩き回ってました。

風俗への勧誘の男性、「マッサージ」と声をかけてくる中国人の女性(よくいますよね)、仲よさそうにしているグループ、そういう人々の間を抜けて、一人、寝処を探して歩き回りました。

勧誘の男性も女性も男性も、「 お金がないhttp://cdncache-a.akamaihd.net/items/it/img/arrow-10x10.png」ことを伝えると、踵を返し、態度が一変しました。

そして一人で眠りにつき、どうしようもない孤独感に襲われました。

そして朝起きて、帰りの電車もまた一人。携帯の充電もなく、誰ともつながれない。
お金もほとんどない。
大切に思ってきた彼女にも振られ、「本当に自分は何もないな」とすら考えました。
(「まだまだ甘い。」、「もっと辛い人は沢山いる。」ということは承知しておりますが、この場では、あえて思ったことをそのまま記載させていただきます。ご気分を害されたら申し訳ございません。)

その電車の中で、座って目を瞑った時に「矢印を相手に向ける」と「自分原因論」の相対性についての考えが巡りました


「『自分原因論』は、物事の原因が自分にあったと考えること。『矢印を相手に向ける』ということは、相手に原因があると考えることだから、『矢印を相手に向ける』っていうだけでは駄目なのかな。」

という風に考えました。

その問いに対する答えはすぐに出ました。

「やはり、『自分原因論』ではなく、『矢印を相手に向け』て考えるべきはないか。」

「『自分原因論』だけだと自分の何が原因か考えて、それに対する対策を自分の中で考え出す。自己満足的な部分もあるのかな。物事は相手がいて起こること。『矢印を相手に向け』ていれば、相手が何を求めていて、何をしてほしいのか、考えたり行動できるからそっちの方がいいのかな。」
と考えました。

例えば、「今月の売上100万円とるぞ!」と目標を立てたにも関わらず、達成できなかった時に、自分原因論で考えると

「何がいけなかったんだろう?行動量が足りなかったのかな?勇気が足りなかったのかな?よし、来月はもっと積極的に行こう!」

という風に考えると思います。

「矢印を相手に向け」て考えると

「何がいけなかったんだろう。この行動は本当にお客様が求めていたことなのだろうか?お客様が本当に求めていたものはこれじゃなかったのかも・・・。まずはお客様の求めているものをもう一度洗いなおして行動してみよう。」

という風に考えると思います。


どっちが正解ということではありませんが『矢印を相手に向ける』はこういうことであるように思えます。

少し脱線しましたが、このことを今回の彼女に振られたことに、あてはめて考えてみました。

正直、自分は「自分原因論」で考えているという自負はありました。

今回のことに限らず、少なくとも人のせい、や環境のせいにしたりすることはないと思っていました。

しかし「矢印を相手に向ける」という考えで言うと、この「自分原因論」さえも自己中心的で、自己満足な解釈でしかなかったのかもしれません。

実際、僕は「自分の何が彼女を困らせていたんだろう、何が嫌だったんだろう。」、「彼女に何をしてあげるんべきだったんだろう、何をしてあげることができたのだろうか。」、「彼女は何を求めていたのだろうか。」

ということは考えていませんでした。厳密に言うと、そういうことを考えることを知らず知らず避けていたのかもしれません。

「あそこでこうすべきだったかな」、「あんな態度とらなければよかった」と「矢印を自分に向けた」状態でしか考えていませんでした。

もちろん、「『矢印を相手に向け』て考えていれば別れなかった」と言う訳ではありません。

結果は同じだったかもしれません。
(でも、もしかしたら、こんなに嫌われて終わるような、未来とは別の未来もあったかもしれません。)

いずれにしても、「矢印を相手に向け」て考えていることができれば、もう少し、もっと彼女の為にしてあげられること、何かの力になれたことはあったかもしれません。

矢印を相手に向けて、自分が何かを得ようとか、肥しにしようというのは、結局は自己満足的な思考に変わりありません。

前述したように、今、自分には誇れるものは何もありません。

もしかしたら、このまま、こんな自分のままで終わるのかもしれません。

それでも少なくとも、今の考えとしては、

「何もなくても、このまま自分が終わったとしても、『矢印を相手に向け』て、相手の為に何ができるか、相手が何を求めているのか、そんなことを考えて行動できる自分でありたい。そんな心だけは失くしたくない。例えば明日死ぬことになったとしても、そんな心を持って今を全力で生きられるようになりたい。そうすれば、何もなかったとしても、ほんの少しは誇れる自分としての一生を全うできるのはないか。」

と、考えます。

だから、今は、「矢印を相手に向けて」日々を歩いていきたい、人のためにできることをしていきたい、と考えています。

少なくともこれが、「彼女に振られた」ということに対して今回「学んだ」と考えていることです。


今後、もしかしたら、また違う考えが浮かぶかもしれません。

でも今は、この考えの基に行動して、日々を変えて生きていきたいと思います。

「失敗を積み重ねろ」とよく言われますが、ただ無粋に失敗を積み重ねるのでなく、目的を持って、「相手に矢印を向け」た状態で様々な失敗積み重ねて、経験していきたいと思います。
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